バトルツアラー、そしてぶんぶん新聞創刊 20代

大学を6年かけてかろうじて卒業したあとは、塾講師アルバイトをしながら、オートバイと小説執筆に明け暮れた。結婚を機に映像制作会社に入社してコンピューターを覚え、会社が倒産するまでテレビ特番のディレクターとして過ごす。

2000年1月 一方向性だった従来の「新聞」的発想から、ネットの双方向性を生かした相互切磋琢磨型の機能を重視した「ぶんぶん・ドットコム」として新たな船出を切る。 30歳
1999年4月 一念発起し、「ぶんぶん新聞」は開眼再刊。「突き抜ける悦び」をメインコピーに大々的にイメージ戦略を展開。オートバイ単独路線から、内省的自己啓発的ライフスタイル情報発信基地としのて再出発を強くアピールした。  
1999年1月 市原千尋のオートバイ単独大クラッシュを契機に、「ぶんぶん新聞」一時休刊。  
1998年10月 bunbun.comドメインを取得。  
1998年4月

「ぶんぶん新聞」のインターフェイスをフレームなしのタイプに変更。このバージョン3が初期「ぶんぶん新聞」の最後のスタイルとなった。
 余談ではあるが、この最終号の表紙を飾った「くりまん」とは5年後に再会し、3年間にわたって仕事のパートナーとなる。

ぶんぶん新聞※画像をクリックすると、当時のぶんぶん新聞をみることができます。

 
1997年8月 「ぶんぶん新聞」アクセス数10,000件突破。  
1997年4月 オートバイ乗りの熱き魂を揺さぶる独自コンテンツ系としての新コンセプトを打ち立てた。孤高であること、妥協せぬことを第一義に、危険なまでの挑発性と排他性を謳いあげた「腰高に生きる」をメインコピーに採用。インターフェイスもフレーム付きのものに。  
1996年11月 「ぶんぶん新聞」インターネット版を創刊。「馬鹿で繋げる世界の輪」をコンセプトに、リンク集をメインとしたページとしてはじまった。  
1996年7月 紙面作製にはじめてコンピューターが導入された。当初はクラリス・インパクトとマッキントッシュでの制作だった。  
1996年6月

映像制作会社タンジーソフトにアシスタントディレクターとして入社。大学卒業時には就職活動さえしなかったが、小説執筆に行き詰まりを感じていたことと、結婚のために安定を演出する必要があったとみられる。しかし入社を決めた決定打はナラハラ社長の「この世界にいたら1年で10年分のイヤな思いができる」の一言だった。入社して最初にやらされたイヤなことは、コンピューターを触ることだった。

 
1996年4月 ぶんぶん新聞は紙ベースのまま、ワープロ切り貼りの技術を導入。最初の妻となる橋本佳代子と結婚。 26歳
1996年3月 手書き(筆文字なぐり書き)コピーにて、オートバイのツーリング仲間への会報として「ぶんぶん新聞」創刊。10円コピーを探す時代だった。編集長兼突撃編集部員は市原千尋。 25歳

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