「9・11は人々に恐怖を植え付けた。恐怖は人々を子供へと退行させます。テロリストも米大統領もあまりに子供っぽい。そして、バーチャルな現実が退行を促進させている。永遠に子供でいることさえ出来るんです」
(レオス・カラックス/仏映画監督)

オートバイや自転車を運転しているときに顕著なのだが、トラックやクルマに幅寄せされ危険な目に遭うと、瞬時に脳内が沸騰し、ほとんど殺意さえ抱いてしまう。

日常生活ではくたびれた感じでだいぶ落ち着いた人間になってきたことよと思うのに、こういうときだけは瞬時のことだからどうしようもない。あとになって、まだ大人になりきれないことよ、とがっくりする。

実弟は、こういう見方を示した。
オートバイもチャリも交通社会のなかでは圧倒的弱者。瞬時に沸騰するのは、身を守ろうとする本能みたいなものだから、「必要な反応なんじゃないの」

しばらくはなるほどと思っていたが、テロに怯える米国の行動も、同じような構造をもっているような気がした。
恐怖は理性を瞬時に失わせる。それは防衛本能という要素があるかもしれない。しかし、トラックに幅寄せされる恐怖はすぐに忘れるが、情報によってもたらされる恐怖、つまり生身の感覚を伴わないバーチャルな恐怖は時間とともに増幅される。

【関連語録】正義と悪

人は、宗教的信念によって行なうときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行なうことはない。
(パスカル『パンセ』)

宗教だけでなく、信念というものは聞こえがいいだけに、案外、危険なものが多い。優柔な信念というものの存在が許されるなら別だが。

自分に疑いを持っている人はあまり悪行は犯さない。自分を正しいと思っている人たちが災害をもたらすと思う。
(塩野七生)

数百年にわたった十字軍を牽引し、敗北へと導いたキリスト教圏の王たちの姿を見つめてきた歴史作家による洞察であるが、小さな町内会やPTAを見つめてきた僕も同じ結論である。

魔女裁判のあとをふり返ってみて、しみじみ感ずることは、魔女裁判(いや、それを含めて宗教裁判一般)を一貫している「モラルの倒錯」である。そこでは、残虐、違法、偽善、欺瞞、貪欲、不倫、軽信、迷信、歪曲、衒学、・・およそ思い浮かべられる限りのあらゆる不義、悪徳が、むしろ正義、美徳として、なんのためらいもなく、確信に満ちて堂々と行われているのである。この確信が、あらゆる不義と悪徳を正当化している。
(森島恒雄『魔女狩り』岩波新書)

現代の日本は、漠たる不安と不確かさに満ちている。案外、理想的な状況なのかもしれない。