序
月日ハ百代ノ過客ニシテ、行キ交フ時モ又旅人ナリ。
(松尾芭蕉「おくのほそ道」)
最近、寝ても覚めてもこの一節が胸中をめぐる。何度考えてもその真意は分からぬし、考えるのをやめれば、すうっと頭の中に入ってくる。生来、戦闘的自由革命志士たる自分が、サラリーマンとなり、妻をもち、今や娘もいるという状況に、我ながら驚きながら、安穏たる定住生活に爪の先までどっぷりと漬かったままでバトルツアラーとしての精神が腐ってしまうという危惧。
「おくのほそ道」の冒頭一文を引用した、このなにやら鼻息荒い文章を書いたのが28歳のとき。以来、四度にわたって「おくのほそ道」をたどる旅に出ては中途で挫折している。いちばん遠くまで行ったのは3回目の秋田。3回目まではオートバイを使用し、4回目はランニングで走破しようとしたが草加で早くも挫折した。
毎回コンセプトが変わるので、そのたびに芭蕉が草庵をむすび「おくのほそ道」のスタート地点となった江戸・深川からのやり直しとなる。
そんなことをしているうちに十五年以上もの歳月が流れ、芭蕉がおくのほそ道へと旅だった年齢にさしかかろうとしている。
これまでの四回がなぜ中途で終わったのか。三十代のしめくくりとして東海道五十三次をランニングで踏破したことで分かったことがある。
点と線
東海道五十三次には55箇所の宿場という「点」と、それをつなぐ旧東海道という「線」がある。点は安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」が強く牽引してくれる。線の方も、高度経済成長期に東海道が国道1号、国道1号バイパス、東名高速といったかたちで次々とバイパス化されたことによって、旧来の街道筋がタイムカプセルのように保存される結果となった。つまり線をたどっていて楽しいし、次なる点にたどり着く達成感をつみかさねる喜びもあった。
対して、おくのほそ道をたどる旅は、まずルート保存状態が疑われる。東海道とちがって、東北の街道の多くはバイパス化されずに、そのままの場所で開発が上書きされていった。さらに「おくのほそ道」の書物自体、140余日、2400kmの行程について、原稿用紙にしてたった27枚半の分量しかなく、芭蕉はルートや土地土地の景観や風物についてほとんど記述していない。行程については芭蕉に同行した曾良の記録が参照されることが多いが、これも必ずしもじゅうぶんな量ではない。ルート自体を特定することがきわめて困難なのだ。
「線」自体があやふやので、何をもって踏破というのか、また、東海道の宿場のような明確な「点」もない。「おくのほそ道」の記述で多くを占められているのは、古来の歌枕をめぐった芭蕉の心境である。「おくのほそ道」をたどるというのは、芭蕉の心の動きを追い、芭蕉が思いをはせた古来の歌枕、そこを旅した西行ら先人への思いをたどる心の旅路なのである。
このことに気づいて、やっと道が見えてきた。
よりかかるべき「点」は、わずか27枚半の原文と歌枕。それをつなぐ「線」はルートではなく、古来から受け継がれてきた旅ごころの軌跡。旅程を踏破するのではなく、心の旅筋を踏みしめる。点も線も、読んだ人それぞれの心にあればよい。そんなガイドらしくないガイド絵巻をめざして、五度目の「おくのほそ道」に踏みだしてみようと思っている。
(2014年9月2日)